○ 北海道岩見沢市で多感な子ども時代を送る。岩見沢第一小学校、岩見沢市立緑中学校時代から理知的で活発な少女であった(同級生談)。興味のあることに没頭し、追求する性格で、習い事も熱心に通った(家族談)。
○ 地元の進学校、岩見沢東高校へ進学。学業優先に過ごす。小説に登場する人物や場面も学生時代の経験が多い様子。卒業アルバム委員として、アルバムを編集した。
○ 藤女子大学国文科へ進学。当時流行だった構造主義に傾倒し、志賀直哉の文庫をばらして1日1ページのペースで文章の解析を行うような学究生活を送る。論文や小説など、研究対象は広く、堀辰雄研究を卒業論文のテーマとした。
○ 大学3年生の時、賞金目当てで、「第10回小説ジュニア青春小説新人賞」に応募、佳作を受賞。職業作家志望ではなかったものの、この時の受賞作「さよならアルルカン」で1977年(昭和52年)小説家としてデビューを果たす。
○ 大学卒業後、就職が決まらず、母親との喧嘩がきっかけで家を出て、高校時代からの友人と共同生活を始める。この時代が元になっている作品が、のちに職業作家としての道が確立することになった『雑居時代』である。家賃から雑費まで1ヶ月2万円弱の貧乏生活をスタート。小説を書いては出版社に送る日々であったが、藤女子大学付属中学校の女子寮がモデルとされている『クララ白書』を刊行、1980年代の幕開けであった。
○ 1981年(昭和56年)に北海道から宝塚へ転居。宝塚歌劇をモデルにした漫画『ライジング!』の原作を手がけることになったため、小説家であることを隠してファンクラブに潜入、若手スターの追っかけをしながら原稿を執筆する。1年ほど宝塚で暮らし、ファンクラブ内では準幹部まで出世したという。
○ 1982年(昭和57年)、『雑居時代』が重版を重ねることで職業作家としての道が確立し札幌に戻ったが、長距離電話代の請求額にショックを受けて翌年上京。これと平行して隔月雑誌『小説コバルト』に『ざ・ちぇんじ!』『シンデレラ迷宮』などを発表。『なんて素敵にジャパネスク』シリーズで一躍集英社コバルト文庫の看板作家としての地位を確立。少女小説ブームの立役者として活躍した。
○ 次第にコバルト以外にもフィールドをひろげ、エッセイや評論、自伝的小説などを出版、高い評価を受ける。徳間書店のアニメ情報誌「アニメージュ」で連載した『海がきこえる』は1993年(平成5年)にスタジオ・ジブリでアニメ化され、その後、実写化もされた。
○ 2000年代は漫画賞の選考委員や雑誌の取材で平安時代小説について寄稿したりしていた。病気の宣告を受け、自らの終活に取組んだ。
○ 2008年(平成20年)6月6日午前9時、肺がんで死去。享年51歳。
○ 生前親交の深かった当時の日本橋学館大学准教授、田中二郎氏が、毎年命日に「藤花忌」を開催。没後10年経ついまなお、全国からファンが集まる。